読書と場の記憶

「わたしは疲れてへとへとだ。一つの望みも残っていない。」

【Posted by  青木海青子 miako aoki 】

 新型コロナウイルスの流行により、入院や隔離は誰にも起こりうる、より身近な出来事となりました。ただ籠るのとは違って、独特の不安が漂う日々だと思います。昔夢中になった大作をひっぱり出して読み返す、という読書は、そんな時にぴったりかもしれません。東吉野村に越す以前、夏から冬にかけて、怪我で入院する機会がありました。最初の一ヶ月間は骨折した頸椎の手術を待って、ICU(集中治療室)に入っていました。その時は、首を固定する器具を付けていたし、気管切開をしていたので、起き上がったり、本を読んだりすることは出来ませんでした。

 本が欲しくなったのは、首の手術が終わって一般病棟に上がってからでした。リハビリや食事も始まり、病院での暮らしに細々と楽しみを見出して、白いベッドも落ち着く居所になってきました。実は病院は、自分にとって結構居心地の良い場所です。今でも外来の待ち時間に本を開くと、深く潜っていける感覚があります。皆どこかしら具合が悪く、ままならないことが物事の土台になっているから、安心して自分のペースで進んだり、停泊したりできるのかもしれません。(ルチャ・リブロも、こうした空気を持っていると言っていただくことがあります。ままならない心身を持った二人がやっている所為なのかも。)だからこそ退院後、病院の外でちゃんとやって行けるのかは不安ではありましたが。そんな中、腰を据えてじっくり考えたり、ゆっくり本を読んだりしてみたくなりました。そこで家族に「読みたい」と伝えて持ってきてもらったのが、J.R.R.トールキンの『指輪物語』でした。はじめて読んだのは学生時代で、夢中になって読みました。そのころは確か、評論社の辞書みたいに重くて大きい全3巻(!)のものを読んでいましたが、ベッドで大型本を読むのはちょっと大変なので、文庫版を持ってきてもらうことにしたのです。(などと書いていたら過去、家人の入院中にでっかい方の『指輪物語』を差し入れたらしいです。何を考えているんだ。)ルチャ・リブロに所蔵しているのも、文庫版全9巻です。

『指輪物語』を選んだのは、一度読んだ安心感もあるし、長編だから時間が潰れるという単純な理由です。しかしながら、読み始めてすぐに「今読むのにぴったりだったかもしれない」と感じました。以前読んだ時には全く注目していなかったのですが、『指輪物語』に描かれる登場人物たちの「疲労」が心に迫ってきました。有名な話ではありますが、『指輪物語』著者のトールキンは、イギリス陸軍人として第一次世界大戦を経験し、退役後に『ホビットの冒険』や『指輪物語』を書き始めました。『指輪物語』に描かれる切実な旅の疲労は、思いがけず長期化した行軍や、塹壕での日々が大きく影響しているのだと気づかされます。

 最終目的地に近づくにつれて、主人公のフロドが疲れて歩けなくなる場面*があります。「わたしは疲れてへとへとだ。一つの望みも残っていない。」と仲間のサムにこぼし、重かった鎖かたびらを脱ぎ捨てようとします。サムも「…おらにできることなら、この背中におぶってさしあげるんですがね。じゃ、おぬぎなせえまし!」と応えます。こんな風に印象深い場面場面に、フロドやサムの生身を感じたのでした。前に進む気持ちや、相手を慈しむ気持ちはあれど、疲れには勝てない。身体には限界があるからこそ、這うように進むしかない時もある。壮大なファンタジーの登場人物の中に、生身の身体の切実なままならなさを見出せたことに、リハビリ中の私は勝手に救われたのでした。病院のベッドという停泊場に生身の身体を横たえて『指輪物語』を開き、不思議なシンパシーを感じた読書の記憶です。今でも『指輪物語』を開くと、その頃の感覚が蘇ってきます。

*J.R.R.トールキン『指輪物語9 王の帰還』下 p.60(評論社, 1992)

投稿者 :  青木海青子 miako aoki

1985年兵庫県生まれ。人文系私設図書館Lucha Libro(ルチャ・リブロ)司書。七年間、大学図書館司書として勤務後、東吉野へ。 著書に夫・青木真兵との共著『彼岸の図書館 ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』(H.A.B)がある。
人文系私設図書館Lucha Libroサイト

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