限定されてはいるけれど、ゆったりとした時間
【Posted by 青木真兵 simpei aoki 】
あなたを乗せてやってくる夜行バス
ピンク色に見えました
あなたを連れて走っていく夜行バス
灰色に見えました
(チャットモンチー「バスロマンス」より)
まさにチャットモンチー状態!当時僕はバスに乗りながら、また見送りながら、こんなふうに思っていました。
2007年の秋ごろから付き合い始めた僕たちは、翌年の春には遠く離れて住むことになりました。大学院生だった僕と大学四回生だった彼女(現在の妻)は、もともと大阪の同じ大学に通っていましたが、彼女が金沢の大学図書館に就職が決まったことで、いわゆる「遠距離恋愛」というやつになったのでした。
大阪と金沢は近そうで遠い。特急の電車で約2時間半かかります。でもお金がなかった僕たちは電車を使わず、高速バスで往来していました。今はもうなくなってしまった、大阪-金沢間の阪急バス。所要時間は約5時間でした。僕は隔週で金沢に行き、彼女も隔週で大阪に来てくれていたから、遠距離恋愛といっても毎週会っていたことになります。最低でも月に二回、合わせて計20時間。ずいぶんと長い時間、バスに乗ることになります。こんなにじゅうぶん時間がとれるなんて夢のようだ。そんな考えに頭を切り替えた時、浮かんだのはトルストイ『戦争と平和』(岩波文庫)でした。
「本を読む時間」には二種類あります。一日のやることが終わり、後は寝るだけといった「ゆったりとした時間」。もうひとつは通勤途中や人を待っている間などの「限定された時間」です。どちらが良くてどちらが悪いというのではないけれど、今の社会ではどうしてもどちらか一つしか選べない。でも大阪と金沢を往復するバスの車中は、約5時間何もやることがないという、「限定されてはいるけれど、ゆったりとした時間」だったのでした。
この「限定されてはいるけれど、ゆったりとした時間」こそ、まさに「場所」の持つ本来的な性質です。でも現代はなるべく早く、簡単に、障害を感じずに物事を処理することばかりが求められます。それは「限定を超える」ことが至上命題とされた、近代という時代の延長線上に今があるためです。でも人間は身体や場所という「限定」を棄て去ることはできないし、むしろ、それがあるから「遠距離恋愛」などの物語が生まれます。
さて、『戦争と平和』は作者のトルストイが歴史的事実に基づいて著した、19世紀前半のロシア帝国を舞台とした小説です。フランス革命後の混乱を治めた将軍ナポレオンが率いるフランス軍は、当時圧倒的な強さを誇っていました。フランス軍がヨーロッパを席巻し、既存の秩序が変わっていく時代が『戦争と平和』の背景にあります。
ナポレオンは自国の領土拡大を、革命の理念を輸出するためとして正当化します。封建的で息苦しい旧弊な社会から、人びとを解放してあげようというのです。『戦争と平和』はロシアの貴族ピエール・ベズーホフを主人公に、封建社会から近代市民社会への移行の様子、つまり貴族の没落が描かれている作品でもあります。
『戦争と平和』の中で最も圧巻のシーンは、フランス軍がロシアの首都モスクワに攻め入る場面です。歴史的事実なのでネタバレにはならないと思いますが、フランス軍がモスクワに攻め込んできた時、勝算がないと悟ったロシア軍はモスクワに火を放ち退却します。その時に到来したのが「冬将軍」です。この大寒波によってフランス軍は大打撃をこうむり、破竹の勢いだったナポレオン軍は劣勢になっていきます。
この時のロシアは、ある意味で「寒さに救われた」とも言えます。しかし時代が進むとロシアは近代化政策のなかで、冬でも凍らない港を求めるようになります。寒さという「限定」に救われた国が、その「限定」を取り払おうとする。これもなんだか近代化における「場所の喪失」を表しているようで、とても興味深い現象です。
僕たちは奈良県の東吉野村という、人口1700人の山村で私設図書館をしています。ひなた文庫さんも阿蘇の奥の方で本屋さんをしている。実はこれは現代社会で消えてしまった「限定」を、わざわざ手に入れる行為とも言えます。なぜそんなものをわざわざ手に入れるのか。それは「限定されてはいるけれど、ゆったりとした時間」を取り戻すためだと思います。そしてこのような時間が存在する「場所」にこそ、「物語」が生まれる余地はある。
今、各地に小さな本屋さんが続々と誕生しています。たぶんこの背景には、僕たちの暮らしのなかに本来の意味での「場所」を取り戻し、「物語」の湧く泉に触れたいと思っている人たちが増えていることがあります。「限定」を恐れないこと。まずはそれが「場所」を僕たちの手に取り戻すための第一歩なのだと思います。